一覧表について
平成17年6月12日、当時の戸畑郷土史会のメンバーが、戸畑に点在する史跡、遺跡、文化遺産等の記録を目的とした一覧表を作成しました。下記の表はそれを基に作成しています。
参考文献 戸畑市史 戸畑大観
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名 称 | 存否 | 概 要 |
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牧山古墳 | 現存 | 古墳時代後期(6~7世紀)。1号墳墳丘と石室が残る。 2号墳は天井石も無く露出している 蟠螭文鏡(ばんちもんきょう)。牧山古墳より出土。蟠龍文鏡ともいう。蟠龍とは、まだ地上に住んでいて昇天しない龍の事。中国秦代~前漢の頃に鋳造される。 |
中の島 | 現存せず | 永正年間、竹内治部の城があったとされる。黒田長政の治世下で黒田二十四騎の一人三宅若狭守家義の居城となる。昭和14年洞海湾の改修時に消滅。惜別式が行われた。 |
戸畑町役場 | 現存せず | |
旧戸畑市役所 | 保存活用 | 福岡県営繕課の設計。昭和9年1月竣工。昭和38年2月より北九州市役所仮庁舎。昭和47年4月より戸畑区役所。改修により平成26年3月より図書館として再整備。 |
戸畑消防署と警察署 | 現存せず | |
戸畑市公会堂 | 現存せず | アールデコでしょうか?非対称形で素敵です。 |
戸畑文化ホール | 現存せず | 成人式や九州交響楽団の公演など様々に活用されていました。 |
戸畑郵便局 | 現存せず | 1899年(明治32年)9月1日 - 戸畑郵便受取所として開設 1905年(明治38年)4月1日 - 戸畑郵便局(三等)となる。 1921年(大正10年)4月1日 - 等級を三等から二等に改定 1944年(昭和19年)2月1日 - 高岸分室を設置 1956年(昭和31年)10月11日 - 当局および高岸分室において、電話通話および和文電報受付事務の取扱を開始[4]。 1966年(昭和41年)3月14日 - 戸畑区殿町から同区新池町に移転 ウィキペディアより引用 |
旧安川家住宅 | 保存検討中 | 安川敬一郎旧宅。当初は辰野金吾博士設計の大規模洋館が計画されていた。現在大座敷と洋館が残っており2018年和洋館共に市文化財指定を受けました。。2019年11月一般公開予定です。 |
旧松本家住宅 | 重要文化財 | 松本健次郎旧宅兼明治専門学校の迎賓館として明治41年から45年に建設。洋館の設計は辰野金吾博士、日本館の設計と全体の監督は久保田小三郎技手が行う。内装は高村光雲の弟子の相原雲楽と、洋画家の和田三造画伯、農商務省技官で画家の高島北海画伯とが手掛け、日本随一のアールヌーボー建築として高い評価を受けている。国指定重要文化財。現西日本工業俱楽部。 |
明治専門学校 | 一部現存 | 基金330万円、敷地7万8千予坪。総工費80万。(現在の1000億円以上)設計を工学博士辰野金吾に依頼。明治40年 明治専門学校起工。明治45年までに学寮、食堂、演武場、各学科教室、役宅49棟69戸、私立明治尋常小学校、医局、日用品供給所、中原郵便局、農園、ゴルフ場、ゲートボール場、テニスコート、水道、ガス、電気、校長宿舎、教授宿舎、職員倶楽部、炊夫住宅、学寮付属室、などが整備された。実測10万1397坪。 |
守衛所 | 現存 | 明治専門学校開校当初から残る唯一の建物。辰野葛西事務所設計。 |
正門 | 現存 | 明治専門学校開校当時から残る貴重な遺構。鉱滓煉瓦と鋳鉄製門扉です。 |
機械遺産①②③④ | 保存展示 | 当時最新鋭の実習用機械が備えられていました。その一部が九州工業大学構内に野外展示されています。 |
夜宮公園 | 元々は広大な安川松本家の敷地。昭和32年に公園が造成され、昭和34年に慰霊塔を設置、戸畑の戦没者1370柱が合祀されている。 | |
中央公園 | ||
都島展望公園 | ||
美禄公園 | ||
若戸スポール | 現存せず | |
飛幡八幡神社 | 建久年間(1190年 - 1199年)、筑前の宇都宮氏(麻生氏)の祖である宇都宮重業が、出身地の宇都宮から氏神の八幡神を勧請し、花尾城の鬼門にあたる枝光村宮田山に祀ったのに始まる。後に戸畑村に遷され、戸畑・中原両村の産土神とされた。江戸時代には藩主黒田家の祈願所とされた。1920年(大正9年)に現在地の浅生に遷座した。1931年(昭和6年)に県社に列した。1995年(平成7年)、それまでの「戸畑八幡神社」から「飛幡八幡宮」に社名を変更した。 ウィキペディアより | |
菅原神社 | 菅原道真が太宰権帥に左遷され、筑紫の太宰府におもむく途中、天籟寺の地に一夜宿をとったという。のち太宰府に道真の廟が建立された時、その由来によって現在地に勧請したのに起ると伝えられている。 ウィキペディアより | |
御手洗の池 | ||
中原八幡神社 | ||
恵比須神社 | ||
名護屋明神社 | 現存せず | 名護屋岬にあったが大正6年の東洋製鉄による土地買収で県社八幡神社へご遷座。鳥居は今でも飛幡八幡神社の境内にあります。 |
魚市場 | 現存せず | |
戸畑炭塊社 | 現存せず | 戸畑最初の工業。明治11年、戸畑居住の陰山、中屋氏らが資本金4万4千円にて創立。仏人技師エーメコ氏を招聘、20馬力の仏国製機関を据え創業。業績不振で明治15年に保護資金1万5千円を政府から借入したが1年で閉鎖、明治20年にコークス製造に転換しようとしたが、資金不足で再開できず。明治24年、中島に関西コークス工場創設。 |
戸畑耐火煉瓦 | 現存せず | 石野寛平氏の計画により明治32年7月起業。始め日本耐火煉瓦と称したが経営難のため、戸畑の林茂雄氏が明治36年5月1日単独継承。戸畑煉瓦製造所と改称する。 |
三菱骸炭工場 | 現存せず | 明治31年、三菱の岩崎家の経営による。敷地9134坪、職員30余名、職工200余名。骸炭とは、石炭を1000℃で乾留(蒸焼き)したコークスのこと。 |
旭ガラス牧山工場 | 現存せず | 三菱系企業であり、三菱骸炭と隣接して設立された。 |
明治紡績 | 現存せず | 明治41年 松本健次郎を代表社員として資本金200万円で戸畑町牧山に設立。当初1万6千余錘。男工128人、女工531人精紡係16人。昭和15年には精紡機13万6千錘、自動織機340台で綿糸、綿布、化繊糸を製造。戦時中の企業合同により昭和16年敷福島紡績と合併。 |
明治鉱業本社 | 現存せず | 明治41年 赤池炭鉱、明治炭坑、豊国炭坑を合せて資本金500万円にて明治鉱業株式合資会社を設立。嘉穂郡頴田村に本社を置く。大正8年 明治鉱業本社を戸畑町4302番地へ移す。大正8年12月、辰野金吾博士の元で技手を務めた、工手学校(現在の工学院大学)出身の久保田小三設計が施工を行った戸畑町204番地の本社新社屋へ移転。昭和24年 東京へ本社を移転。昭和44年 上場廃止 |
明治鉱業社宅 | 現存せず | |
東洋製鉄 | 現存せず | 大正4年鮎川義介氏と久原房之助氏が戸畑製鉄所の設立と60万坪の土地買収を発表。計画が頓挫しかけたが、東洋製鉄と合併。大正10年に八幡製鉄所戸畑作業所。 |
共同漁業ビル | 保存活用 | 明治44年に下関に設立された田村汽船漁業部が戸畑に移転。共同漁業ビル(ニッスイ戸畑ビル)は1936年(昭和11年)に竹中工務店により竣工。現在日水パイオニア館として活用中。 |
戸畑鋳物 | 現存せず | 日産コンツェルン総帥となる鮎川義介氏の初の事業として創立。後の日立金属。日産自動車は戸畑鋳物自動車部として発足。跡地は現在のイオン戸畑。 |
明治製糖戸畑工場 | 現存せず | |
東洋製缶 | 現存せず | |
中原発電所6本煙突 | 現存せず | |
戸畑商工会 | 現存せず | |
戸畑商工会議所 | 現存せず | |
金比羅山と金比羅池 | ||
往時の洞海湾 | ||
中原海水浴場 | 現存せず | |
一文字海岸 | 現存せず | |
戸畑駅 | ||
戸畑漁港 | ||
戸畑港 | ||
渡し場 | ||
若戸渡船 | 大渡川渡船発着岸壁と呼ばれていた渡船場に小蒸気船就航。。 | |
東洋競馬場 | 現存せず | 名護屋岬にあり、春秋に競馬が催された。戸畑製鉄建設のため三萩野へ移転。 |
若戸大橋 | 東洋一のつり橋とうたわれた。当時は人道もあり、眼下の風景を眺めながら歩くことができました。 | |
西鉄電車 | 現存せず | 幸町電停。 |
渡し場バス停 | 渡し場前。 |